ピンク・レディー (Pink Lady) は1970年代後半に活躍したデュオのダンス・ミュージック系アイドル。ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。所属事務所はT&C ミュージック、音楽出版権利・管理はバーニングパブリッシャーズである。   出会いとデビュー   中学、常葉高校(現・常葉大学附属常葉高校)時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し 歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラス・グループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され合格する。   『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。作曲家・都倉俊一は「カクテルのピンク・レディーに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。   デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。   人気絶頂期   ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。   そして、第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。   第6弾シングルの「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。   第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。ピンクレディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。さらに、次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、「渚のシンドバッド」・「ウォンテッド(指名手配)」・「UFO」・「サウスポー」と続いた“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録した。   このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリジナル・コンフィデンスの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42.5%を占めた。   1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。   人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。   紅白歌合戦辞退・アメリカ進出・日本での人気急落   「カメレオン・アーミー」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。そんな中、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。しかし視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72.2%に対し、ピンク・レディーが出演した裏番組は8.2%と惨敗する結果となった。それでも前年度の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の6.2%を上回り善戦したともされる。   ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。だが、ミーハー路線が飽きられたのと、日本ではピンク・レディーに代わる松田聖子など新しいアイドル時代の到来、また前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミから激しいバッシングを受けたことや、更には事務所のトラブルやメンバーの恋愛トラブルなどが相まってしまう。   ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、往時の勢いを取り戻すことは全くできなかった。こうした経緯から、アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったが、米国でピンク・レディーほど活躍した日本人歌手は今のところ他には存在しない。冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。   解散へ   そして1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。それから7か月後の1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサートを開催する。しかし、そのコンサート当日はみぞれ交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであり、感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。   活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。   再結成   解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。   2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION" を開催。   2017年12月31日、TBSの『第59回日本レコード大賞』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、故・阿久悠が特別賞を受賞したことを祝したものである。披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。 翌年の2018年12月30日の第60回日本レコード大賞にも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。
  ピンク・レディー (Pink Lady) は1970年代後半に活躍したデュオのダンス・ミュージック系アイドル。ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。所属事務所はT&C ミュージック、音楽出版権利・管理はバーニングパブリッシャーズである。   出会いとデビュー   中学、常葉高校(現・常葉大学附属常葉高校)時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し 歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラス・グループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され合格する。   『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。作曲家・都倉俊一は「カクテルのピンク・レディーに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。   デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。   人気絶頂期   ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。   そして、第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。   第6弾シングルの「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。   第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。ピンクレディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。さらに、次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、「渚のシンドバッド」・「ウォンテッド(指名手配)」・「UFO」・「サウスポー」と続いた“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録した。   このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリジナル・コンフィデンスの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42.5%を占めた。   1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。   人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。   紅白歌合戦辞退・アメリカ進出・日本での人気急落   「カメレオン・アーミー」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。そんな中、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。しかし視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72.2%に対し、ピンク・レディーが出演した裏番組は8.2%と惨敗する結果となった。それでも前年度の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の6.2%を上回り善戦したともされる。   ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。だが、ミーハー路線が飽きられたのと、日本ではピンク・レディーに代わる松田聖子など新しいアイドル時代の到来、また前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミから激しいバッシングを受けたことや、更には事務所のトラブルやメンバーの恋愛トラブルなどが相まってしまう。   ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、往時の勢いを取り戻すことは全くできなかった。こうした経緯から、アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったが、米国でピンク・レディーほど活躍した日本人歌手は今のところ他には存在しない。冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。   解散へ   そして1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。それから7か月後の1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサートを開催する。しかし、そのコンサート当日はみぞれ交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであり、感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。   活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。   再結成   解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。   2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION" を開催。   2017年12月31日、TBSの『第59回日本レコード大賞』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、故・阿久悠が特別賞を受賞したことを祝したものである。披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。 翌年の2018年12月30日の第60回日本レコード大賞にも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。
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ピンク・レディー
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