小档案      和田弘:リーダー、スチールギター担当。2004年没。   松平直樹:ボーカル。独特のニヤけた笑顔と独特の髪型が特徴。1954年参加。1970年の退団後、松平直樹とブルーロマンを結成。1983年頃解散し、ソロ活動を行っていたが、1989年復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、マヒナスターズとして活動を再開。   三原さと志:ボーカル。コーネリアスの小山田圭吾は実子。相次ぐメンバー離脱時も残留し、長年マヒナのメインボーカルとして活躍。1958年参加。1983年に一度退団したが1986年復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、再びマヒナとして活動再開直後に脳梗塞で倒れ療養。2006年没。   佐々木敢一:ウクレレ、コーラス。独特のファルセット(裏声)の持ち主。1955年参加。1967年、マヒナの東芝移籍の際に、山田と二人残留し、マハロ・エコーズを結成したが後に解散しマヒナ復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、マヒナスターズとして活動を再開。北野ファンクラブ内で、セットの黒板に『マヒナスターズの裏声の人出演希望。連絡お待ちしています』と書かれていた(実際に、佐々木を含むメンバー全員で北野ファンクラブに出演している)。自身のハワイアングループ(佐々木敢一とアロハ・スターズ)も持っている。   山田競生:ベース担当。俳優の広岡瞬の父親。1958年参加、1967年退団。マハロエコーズを経て、RCAレコードのディレクターに転じ、内山田洋とクール・ファイブなどを担当した。1989年復帰するも1994年再び退団。   日高利昭:ギター担当。結成以来のメンバーで2002年のマヒナ分裂時も残留したが同年12月退団。2003年からは多岐川令子とデュオ「サナレイ」を結成し、活動を続けている。   以上が往年のメンバー。他には三島敏夫(1954年参加)も一時在籍していた。   現在のメンバーは松平、佐々木と   白片與(白片与):ギター担当。バッキー白片の長男。   白片修:ベース担当。バッキー白片の次男。   向坂卓人:スチールギター担当。             小简介      和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ)とは、スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする音楽グループ。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。マヒナはハワイ語で「月」を意味する。       アロハハワイアンズ退団後、1953年にハワイアンバンドとして「山口銀次とマヒナスターズ」として結成。翌1954年、リーダーの山口銀次が引退、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」に改名する。   ハワイアンのメロディ、作曲家吉田正のコーラスを手本にして新しい歌謡曲の要素を作り出した第一人者でもある。   吉田正の門下として、1957年にムード歌謡としてデビュー。第一弾は「東京の人(三浦洸一)/哀愁の街に霧が降る(山田真二)」で、第二弾は「好きだった」(鶴田浩二)を吹き込んだ[1]。全て吉田正のカバー曲。翌1958年8月にオリジナル曲「泣かないで」で事実上のデビューを果たした[2]。   1960年代には、松尾和子らの女性歌手をむかえるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「愛して愛して愛しちゃったのよ」、「ウナ・セラ・ディ東京」など多数のヒット曲を残した。1967年にビクターから東芝に移籍。   その後メンバーの変動があったが、1989年に全盛期のメンバーが再集結した。同年「第40回NHK紅白歌合戦」に再出場する快挙も達成する。   しかし2002年頃に再び内紛が起き、和田以外のメンバーは全員離脱し事実上の和田弘とマヒナスターズの解散となった。   その後松平・佐々木・三原は新たに別グループを結成。和田側も新たにメンバーを入れ、新生マヒナスターズとして再始動。また、「マヒナスターズ」という名称を商標登録した。このことで旧メンバーと対立し訴訟問題に発展していた。その商標登録問題解決も間近と見られていた2004年1月5日に和田が急死した。   現在は松平・佐々木が中心となって活動を行っている。   2006年9月30日には、長年マヒナのボーカルとして活躍した三原も亡くなった。2003年7月に脳梗塞で倒れて以降、リハビリを続けていたが復帰は叶わなかった。   樋屋製薬の「樋屋奇應[3]丸」のCMソングを歌ったことでも知られている。
  小档案      和田弘:リーダー、スチールギター担当。2004年没。   松平直樹:ボーカル。独特のニヤけた笑顔と独特の髪型が特徴。1954年参加。1970年の退団後、松平直樹とブルーロマンを結成。1983年頃解散し、ソロ活動を行っていたが、1989年復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、マヒナスターズとして活動を再開。   三原さと志:ボーカル。コーネリアスの小山田圭吾は実子。相次ぐメンバー離脱時も残留し、長年マヒナのメインボーカルとして活躍。1958年参加。1983年に一度退団したが1986年復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、再びマヒナとして活動再開直後に脳梗塞で倒れ療養。2006年没。   佐々木敢一:ウクレレ、コーラス。独特のファルセット(裏声)の持ち主。1955年参加。1967年、マヒナの東芝移籍の際に、山田と二人残留し、マハロ・エコーズを結成したが後に解散しマヒナ復帰。2002年に再び退団。2004年の和田急死後、マヒナスターズとして活動を再開。北野ファンクラブ内で、セットの黒板に『マヒナスターズの裏声の人出演希望。連絡お待ちしています』と書かれていた(実際に、佐々木を含むメンバー全員で北野ファンクラブに出演している)。自身のハワイアングループ(佐々木敢一とアロハ・スターズ)も持っている。   山田競生:ベース担当。俳優の広岡瞬の父親。1958年参加、1967年退団。マハロエコーズを経て、RCAレコードのディレクターに転じ、内山田洋とクール・ファイブなどを担当した。1989年復帰するも1994年再び退団。   日高利昭:ギター担当。結成以来のメンバーで2002年のマヒナ分裂時も残留したが同年12月退団。2003年からは多岐川令子とデュオ「サナレイ」を結成し、活動を続けている。   以上が往年のメンバー。他には三島敏夫(1954年参加)も一時在籍していた。   現在のメンバーは松平、佐々木と   白片與(白片与):ギター担当。バッキー白片の長男。   白片修:ベース担当。バッキー白片の次男。   向坂卓人:スチールギター担当。             小简介      和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ)とは、スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする音楽グループ。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。マヒナはハワイ語で「月」を意味する。       アロハハワイアンズ退団後、1953年にハワイアンバンドとして「山口銀次とマヒナスターズ」として結成。翌1954年、リーダーの山口銀次が引退、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」に改名する。   ハワイアンのメロディ、作曲家吉田正のコーラスを手本にして新しい歌謡曲の要素を作り出した第一人者でもある。   吉田正の門下として、1957年にムード歌謡としてデビュー。第一弾は「東京の人(三浦洸一)/哀愁の街に霧が降る(山田真二)」で、第二弾は「好きだった」(鶴田浩二)を吹き込んだ[1]。全て吉田正のカバー曲。翌1958年8月にオリジナル曲「泣かないで」で事実上のデビューを果たした[2]。   1960年代には、松尾和子らの女性歌手をむかえるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「愛して愛して愛しちゃったのよ」、「ウナ・セラ・ディ東京」など多数のヒット曲を残した。1967年にビクターから東芝に移籍。   その後メンバーの変動があったが、1989年に全盛期のメンバーが再集結した。同年「第40回NHK紅白歌合戦」に再出場する快挙も達成する。   しかし2002年頃に再び内紛が起き、和田以外のメンバーは全員離脱し事実上の和田弘とマヒナスターズの解散となった。   その後松平・佐々木・三原は新たに別グループを結成。和田側も新たにメンバーを入れ、新生マヒナスターズとして再始動。また、「マヒナスターズ」という名称を商標登録した。このことで旧メンバーと対立し訴訟問題に発展していた。その商標登録問題解決も間近と見られていた2004年1月5日に和田が急死した。   現在は松平・佐々木が中心となって活動を行っている。   2006年9月30日には、長年マヒナのボーカルとして活躍した三原も亡くなった。2003年7月に脳梗塞で倒れて以降、リハビリを続けていたが復帰は叶わなかった。   樋屋製薬の「樋屋奇應[3]丸」のCMソングを歌ったことでも知られている。
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和田弘とマヒナスターズ
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