BOØWY(ボウイ)は、日本のロックバンド。1980年代に活躍。1981年結成、1987年解散。   ネットメディアなどではいわゆる文字化け防止のために「BOOWY」としたり、「BOΦWY」や「BOφWY」などと代用文字で表記されることがあるが、正しいグループ名は、3文字目がギリシャ文字の「Φ」(ファイ)ではなく「Ø」(ストローク符号を付したO)である。   1980年7月5日、当時ヴォーカルとして所属していたバンド『スピニッヂ・パワー』を脱退し帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て新たなバンド結成を決意する。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再会。9月、松井恒松が加入。深沢和明、諸星アツシが加入。   1981年サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、その当時「ガール(英語版)」というイギリスのハードロックバンド(メンバーは全員男性)がいたことに対抗し、こちらは男ばかりだからそのまま「ボーイ」だろうということで、当て字で『暴威』と命名された。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蠅』にあやかって『群馬暴威』という名を提案されたものの、メンバーから猛反対され即ボツになった。ちなみに、デヴィッド・ボウイの名前から命名されたという俗説もあるが、当時の媒体の思い込みによるものである。ただし『暴威』という当て字は、デビッド・ボウイの為に山本寛斎がデザインした衣装に書かれた『出火吐暴威』の文字からとっている。5月、最初のアルバム『MORAL』レコーディング開始。5月11日、新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。ちなみに、このギグのオーディエンスは13人(男性9人、女性4人)」。その中には山田淳の誘いで観に来た高橋まこともいた。他には、氷室と同郷の女暴走族リーダーおよびその連れの女性2名。後日、高橋がスタジオでのセッションを経て正式加入し、木村が脱退。   1982年1月28日、バンド名を「BOØWYボウイ」に改名。3月21日、ビクター音楽産業より最初のアルバム『MORAL』発売。プロデューサーはマライアの渡辺モリオ。9月9日、渋谷PARCO PARTIIIのライブで「CHANGE COSTUME」と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニューウェイブ系のメロディアスな楽曲へとシフトチェンジ。衣装も黒ずくめからカラフルなものに変える。このライブがバンドの一つの転機となった。10月9日、この日行われた新宿LOFTでのライブを最後に深沢と諸星が脱退し、氷室・布袋・松井・高橋の4人編成となる。   1983年プライベートオフィス「Ø-con' nection」設立。4月30日、新宿LOFTを皮切りとして、「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開。9月25日、徳間ジャパンよりアルバム『INSTANT LOVE』発売。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の「OH!MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得。12月31日、内田裕也が発起人となっているイベント「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」(西武劇場)に出演。   1984年3月30日・31日、新宿LOFTで2DAYSライブを敢行(「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS 〜すべてはけじめをつけてから〜」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。5月31日、拠点を渋谷LIVE INN へ移し「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。10月7日、ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。同時にライヴの半年間休止も発表された。12月6日、氷室、「狂介」から「京介」に改名。   1985年2月24日、ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWYボウイ』レコーディング開始。3月12日、ロンドンのマーキー・クラブ(英語版)でGIGを行う。4月13日、赤坂ラフォーレミュージアムでマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行う。6月1日、ファーストシングル『ホンキー・トンキー・クレイジー』発売。6月21日、アルバム『BOØWYボウイ』発売。プロデューサーは佐久間正英。6月25日、渋谷公会堂で初の大ホール・ワンマンコンサートを行う。8月22日、シングル『BAD FEELING』発売。9月6日、名古屋芸術創造センターで「BOØWY'Sボウイズ BE AMBITIOUS」ツアー開始。12月24日、渋谷公会堂で同ツアー終了。このライヴ終了後にステージ上で布袋が山下久美子との結婚を発表した。   1986年2月1日、シングル『わがままジュリエット』発売。3月1日、アルバム『JUST A HERO』発売。3月24日、青山スパイラルホールで「JUST A HERO TOUR」開始。7月2日、日本武道館で同ツアー終了。7月31日、上記の武道館公演を収録したライブ・アルバム『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』を限定盤(後に通常盤が再発売された)として発売。8月2日-3日、南こうせつの野外ライブ「第6回サマーピクニック」(玄海彫刻の岬・恋の浦)にゲスト出演。9月29日、シングル『B・BLUE』発売。11月8日、アルバム『BEAT EMOTION』発売。11月11日、石川厚生年金会館より「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」開始。   1987年2月24日、日本武道館で「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」ツアー終了。4月6日、シングル『ONLY YOU』発売。7月22日、シングル『MARIONETTE』発売。7月31日、神戸でライブ「CASE OF BOØWYボウイ」を開催。しばらく演奏されていなかった初期の曲もセットリストに含めた、バンドの総括的なライブであった。8月7日には横浜でも開催された。8月22日-23日、グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント「BEAT CHILD」に出演。9月5日、アルバム『PSYCHOPATH』発売。9月16日、宇都宮市文化会館で「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」開始。10月26日、シングル『季節が君だけを変える』発売。12月24日、同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。12月25日、新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載される。   1988年2月3日、未収録3曲を追加した『MORAL+3』、12インチシングル『DAKARA』発売。4月4日・5日、東京ドームにて「LAST GIGS」を行う。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語った。終了後の移動車両の中でメンバー全員が泣いたという。5月3日、アルバム『LAST GIGS』発売。12月24日、アルバム『SINGLES』発売。
  BOØWY(ボウイ)は、日本のロックバンド。1980年代に活躍。1981年結成、1987年解散。   ネットメディアなどではいわゆる文字化け防止のために「BOOWY」としたり、「BOΦWY」や「BOφWY」などと代用文字で表記されることがあるが、正しいグループ名は、3文字目がギリシャ文字の「Φ」(ファイ)ではなく「Ø」(ストローク符号を付したO)である。   1980年7月5日、当時ヴォーカルとして所属していたバンド『スピニッヂ・パワー』を脱退し帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て新たなバンド結成を決意する。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再会。9月、松井恒松が加入。深沢和明、諸星アツシが加入。   1981年サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、その当時「ガール(英語版)」というイギリスのハードロックバンド(メンバーは全員男性)がいたことに対抗し、こちらは男ばかりだからそのまま「ボーイ」だろうということで、当て字で『暴威』と命名された。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蠅』にあやかって『群馬暴威』という名を提案されたものの、メンバーから猛反対され即ボツになった。ちなみに、デヴィッド・ボウイの名前から命名されたという俗説もあるが、当時の媒体の思い込みによるものである。ただし『暴威』という当て字は、デビッド・ボウイの為に山本寛斎がデザインした衣装に書かれた『出火吐暴威』の文字からとっている。5月、最初のアルバム『MORAL』レコーディング開始。5月11日、新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。ちなみに、このギグのオーディエンスは13人(男性9人、女性4人)」。その中には山田淳の誘いで観に来た高橋まこともいた。他には、氷室と同郷の女暴走族リーダーおよびその連れの女性2名。後日、高橋がスタジオでのセッションを経て正式加入し、木村が脱退。   1982年1月28日、バンド名を「BOØWYボウイ」に改名。3月21日、ビクター音楽産業より最初のアルバム『MORAL』発売。プロデューサーはマライアの渡辺モリオ。9月9日、渋谷PARCO PARTIIIのライブで「CHANGE COSTUME」と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニューウェイブ系のメロディアスな楽曲へとシフトチェンジ。衣装も黒ずくめからカラフルなものに変える。このライブがバンドの一つの転機となった。10月9日、この日行われた新宿LOFTでのライブを最後に深沢と諸星が脱退し、氷室・布袋・松井・高橋の4人編成となる。   1983年プライベートオフィス「Ø-con' nection」設立。4月30日、新宿LOFTを皮切りとして、「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開。9月25日、徳間ジャパンよりアルバム『INSTANT LOVE』発売。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の「OH!MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得。12月31日、内田裕也が発起人となっているイベント「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」(西武劇場)に出演。   1984年3月30日・31日、新宿LOFTで2DAYSライブを敢行(「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS 〜すべてはけじめをつけてから〜」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。5月31日、拠点を渋谷LIVE INN へ移し「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。10月7日、ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。同時にライヴの半年間休止も発表された。12月6日、氷室、「狂介」から「京介」に改名。   1985年2月24日、ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWYボウイ』レコーディング開始。3月12日、ロンドンのマーキー・クラブ(英語版)でGIGを行う。4月13日、赤坂ラフォーレミュージアムでマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行う。6月1日、ファーストシングル『ホンキー・トンキー・クレイジー』発売。6月21日、アルバム『BOØWYボウイ』発売。プロデューサーは佐久間正英。6月25日、渋谷公会堂で初の大ホール・ワンマンコンサートを行う。8月22日、シングル『BAD FEELING』発売。9月6日、名古屋芸術創造センターで「BOØWY'Sボウイズ BE AMBITIOUS」ツアー開始。12月24日、渋谷公会堂で同ツアー終了。このライヴ終了後にステージ上で布袋が山下久美子との結婚を発表した。   1986年2月1日、シングル『わがままジュリエット』発売。3月1日、アルバム『JUST A HERO』発売。3月24日、青山スパイラルホールで「JUST A HERO TOUR」開始。7月2日、日本武道館で同ツアー終了。7月31日、上記の武道館公演を収録したライブ・アルバム『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』を限定盤(後に通常盤が再発売された)として発売。8月2日-3日、南こうせつの野外ライブ「第6回サマーピクニック」(玄海彫刻の岬・恋の浦)にゲスト出演。9月29日、シングル『B・BLUE』発売。11月8日、アルバム『BEAT EMOTION』発売。11月11日、石川厚生年金会館より「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」開始。   1987年2月24日、日本武道館で「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」ツアー終了。4月6日、シングル『ONLY YOU』発売。7月22日、シングル『MARIONETTE』発売。7月31日、神戸でライブ「CASE OF BOØWYボウイ」を開催。しばらく演奏されていなかった初期の曲もセットリストに含めた、バンドの総括的なライブであった。8月7日には横浜でも開催された。8月22日-23日、グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント「BEAT CHILD」に出演。9月5日、アルバム『PSYCHOPATH』発売。9月16日、宇都宮市文化会館で「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」開始。10月26日、シングル『季節が君だけを変える』発売。12月24日、同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。12月25日、新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載される。   1988年2月3日、未収録3曲を追加した『MORAL+3』、12インチシングル『DAKARA』発売。4月4日・5日、東京ドームにて「LAST GIGS」を行う。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語った。終了後の移動車両の中でメンバー全員が泣いたという。5月3日、アルバム『LAST GIGS』発売。12月24日、アルバム『SINGLES』発売。
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