广濑香美(ひろせ こうみ),1966年4月12日出生于日本福冈县筑紫野市,日本女歌手、作词家、作曲家、音乐制作人、广播主持人。   生い立ち   和歌山県で生まれる。6歳まで大阪府門真市で育った。6歳から福岡県育ち。父は建設関係の職業であった。   親の方針で3歳の頃からクラシック音楽の英才教育を受け、6歳の頃には作曲も始めていた。「手に職を付けてもらいたい」という母の意向で、4歳からピアノ、そして5歳から和声学などクラシック音楽の作曲法を習い始めた。練習をしなければ夕食抜きになるなど、学習は非常に過酷であった。第1号作品を完成させたのは6歳で、タイトルは「パパとママ」である(この曲は2001年から2002年に行われた初めてのコンサートツアーで弾き語りにより披露された)。初めて買ったレコードはバッハの『マタイ受難曲』。「この作品には作曲法が詰まっていて、作曲のルールを身につけるための勉強になるから」という先生からの教えで、夕食中などにも聴き続けていた。   小・中学生の頃が自身の作曲家人生のピークだったと本人が語っている。日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え、頭の中に浮かべ続けていたという。新しいメロディが浮ぶと、その場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた。後年に広瀬が発表した楽曲の中には、こうして子供時代に作ったメロディを使ったものも多い。元々人が歌うのではなく、ピアノやヴァイオリンなどの器楽曲として書いたものだったことは、メロディの起伏が激しいという特徴につながっている。   中学、高校生時代にはよく通学中に作曲していたという。「ロマンスの神様」のサビ以外の部分は西鉄井尻駅前バス停で、「愛があれば大丈夫」のサビは井尻六ツ角交差点の歩道橋の上で作られた。東京の音大を目指し、地元福岡での勉強に加えて2週間に1度は飛行機で東京にレッスンに通っていた。   福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)卒業後、国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学する。しかし学科内での成績は悪く、講師から「何になりたい?」と尋ねられて「作曲家」と答えるも「無理」と言われた。幼少期から養った音楽理論と自身の夢を否定された広瀬は、気分転換を兼ねて高校時代の友人を訪ねるためロサンゼルス(LA)へと旅立った。そこで、マイケル・ジャクソンやマドンナのライブを観て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。「自分が書き溜めてきたクラシックの楽曲を編曲してマイケル・ジャクソンが歌ったら売れるのでは」と考え、「マイケルに楽曲提供したい」という夢が生まれた。そして夢に少しでも近づくためポップ・ミュージックの勉強を開始、広瀬にとって大きな転機となった。   デビュー   渡米後、友人のつてで、目標としていたマイケル・ジャクソンのヴォイストレーナーであるセス・リッグスのオーディションを受ける。そこでマイケルに少しでも近づくため、作曲やプロデュースの勉強をさせてくれないかと直訴した。結果、歌ものの曲を書きたいのならと、ボーカルトレーニングも受けておくことを勧められ、東洋人で初めての合格者となり約3年間師事する。トレーニング修了後、LA在住の日本人ギタリスト平野T.J.ヨーイチと出会う。平野は広瀬の才能を高く評価し、日本デビューに向けてデモテープを制作した。そして帰国後、多数のレコード会社にデモテープを送付、そのデモテープがビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)のプロデューサー田村充義の目に止まり、同社から作曲家に留まらず、シンガーソングライターとしてのデビューが決定した。   1992年7月、アルバム『Bingo!』でデビュー、同年12月には1枚目のシングル「愛があれば大丈夫」をリリースした。翌1993年にアルペンのCMソングになった3枚目のシングル「ロマンスの神様」は、オリコンチャートで約175万枚の大ヒットとなりブレイクした。それ以降、「幸せをつかみたい」「ゲレンデがとけるほど恋したい」「promise」など、数々のヒット曲を生み出す。   冬にヒットする曲が多いことから「冬の女王」とも呼ばれるが、ヒットした曲が多いアルペンのCMソングやウインターソングなどは実は一年中温暖なロサンゼルスで書いているとのこと。しかも本人はウインタースポーツも全くやらないということで、これら冬の曲を作るのは大変だったということで、部屋中に雪の風景の写真集を広げたり、舞台が冬の映画を観たり、冷房を強めにして寒さを体感しながら曲を書いたという。夏の方が身近なロサンゼルスに住んでいれば、冬が特別な季節に感じられるとも話している。ちなみに広瀬は、自身のシングル「夏だモン」や広末涼子に提供した「summer sunset」など夏の曲も相当数書いている。   教育現場においては、1999年、独自のメソッドを提唱するヴォイス・トレーニングやヴォーカル・レッスンを行う「Do Dream」(現・広瀬香美音楽学校)を開校、自ら校長を務める。また母校と同系列校である福岡女学院大学で客員教授としても教鞭を執っている。   2000年代   2009年7月19日に、親交のあった勝間和代の勧めにより、Twitterのアカウントを取得する。同年11月13日には、日本人メジャーアーティストとしては初となるTwitterコンサートを開催した。Twitter上のみで観客を募集(募集定員もTwitterの文字数制限にちなんで140人)、当日は観客による会場からのTwitter実況を許可、広瀬本人のMCもTwitterでのみ行われ、歌声と時々笑いが起きる以外はほとんど沈黙状態というコンサートとなった。またTwitter上でのやり取りを通じ、「ビバ☆シリーズ」と称して「ビバ☆ヒウィッヒヒー」など5曲を作曲して自身のブログやYouTubeのビクター公式チャンネルで配信、2009年12月にはそれらを収録した『ビバ☆ベスト』がPC配信限定アルバムとして発売された。   2010年代   2010年1月20日、NHK総合『スタジオパークからこんにちは』にゲスト出演し、同局で同日夜に放送された『SONGS』のロケで初めてゲレンデに行った。「冬の女王」と呼ばれているため「ゲレンデには行かないの?」と聞かれた時は「忙しいから行けない」と答えていたが、放送で「冬が苦手なんです」と告白した。2010年10月4日から、ニッポン放送他全国35局ネットで冠番組『広瀬香美 ラジオdeフォロ〜ミ〜』がスタート、初めて全国ネットのレギュラーラジオ番組を持った(翌年春改編で終了)。2010年11月16日に、東京工科大学で広瀬本人と同大学学生が、Twitterを使用し相互につぶやきながらの講義が行われた。   また、2015年には「広瀬香美合唱団」を設立した。同合唱団のテーマ曲は「最高のエンディングを共に」である(2016年発売のアルバム『25th プレイリスト』に収録)。   レギュラー番組としては、2012年10月から12月までNHK Eテレにて『趣味Do楽 「誰でも歌はうまくなる!〜広瀬香美のボーカル・レッスン〜」』を担当。またその話術が買われ、2013年4月(春改編)よりニッポン放送にて『広瀬香美 ミュージックwith』を15年春改編まで、同年12月よりNHK Eテレにて『趣味Do楽「めざせカラオケ王キング! 〜広瀬香美のボーカル・レッスン PART2〜」』を担当。   2018年5月21日付で株式会社オフィスサーティーとのマネジメント契約を終了し、設立中のMuse Endeavor inc.に移籍を発表した。しかし、オフィスサーティー側は一方的かつ無断で移籍を発表されたとし、5月31日付で「広瀬香美」の芸名を使用した芸能活動の禁止を求めることを明らかにした。その後、8月29日にオフィスサーティーとの間で和解が成立したことを発表した。   2019年12月に公式YouTubeチャンネルを開設。   2020年代   2020年になって、気分が落ち込んで明るい新曲が書けない気分転換として、米津玄師やあいみょんらの楽曲をアレンジして歌い上げる「広瀬香美の○○歌ってみた」シリーズを自身のYouTubeチャンネルに投稿し始める。すると、あまりに自由奔放に歌う様が大きな反響を呼んだ。大晦日には、ももいろ歌合戦(BS日テレ・ニッポン放送・AbemaTV)へ初出場。   2018年8月29日宣布退出原事务所オフィスサーティー,移籍到新会社Muse Endeavor inc.
  广濑香美(ひろせ こうみ),1966年4月12日出生于日本福冈县筑紫野市,日本女歌手、作词家、作曲家、音乐制作人、广播主持人。   生い立ち   和歌山県で生まれる。6歳まで大阪府門真市で育った。6歳から福岡県育ち。父は建設関係の職業であった。   親の方針で3歳の頃からクラシック音楽の英才教育を受け、6歳の頃には作曲も始めていた。「手に職を付けてもらいたい」という母の意向で、4歳からピアノ、そして5歳から和声学などクラシック音楽の作曲法を習い始めた。練習をしなければ夕食抜きになるなど、学習は非常に過酷であった。第1号作品を完成させたのは6歳で、タイトルは「パパとママ」である(この曲は2001年から2002年に行われた初めてのコンサートツアーで弾き語りにより披露された)。初めて買ったレコードはバッハの『マタイ受難曲』。「この作品には作曲法が詰まっていて、作曲のルールを身につけるための勉強になるから」という先生からの教えで、夕食中などにも聴き続けていた。   小・中学生の頃が自身の作曲家人生のピークだったと本人が語っている。日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え、頭の中に浮かべ続けていたという。新しいメロディが浮ぶと、その場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた。後年に広瀬が発表した楽曲の中には、こうして子供時代に作ったメロディを使ったものも多い。元々人が歌うのではなく、ピアノやヴァイオリンなどの器楽曲として書いたものだったことは、メロディの起伏が激しいという特徴につながっている。   中学、高校生時代にはよく通学中に作曲していたという。「ロマンスの神様」のサビ以外の部分は西鉄井尻駅前バス停で、「愛があれば大丈夫」のサビは井尻六ツ角交差点の歩道橋の上で作られた。東京の音大を目指し、地元福岡での勉強に加えて2週間に1度は飛行機で東京にレッスンに通っていた。   福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)卒業後、国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学する。しかし学科内での成績は悪く、講師から「何になりたい?」と尋ねられて「作曲家」と答えるも「無理」と言われた。幼少期から養った音楽理論と自身の夢を否定された広瀬は、気分転換を兼ねて高校時代の友人を訪ねるためロサンゼルス(LA)へと旅立った。そこで、マイケル・ジャクソンやマドンナのライブを観て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。「自分が書き溜めてきたクラシックの楽曲を編曲してマイケル・ジャクソンが歌ったら売れるのでは」と考え、「マイケルに楽曲提供したい」という夢が生まれた。そして夢に少しでも近づくためポップ・ミュージックの勉強を開始、広瀬にとって大きな転機となった。   デビュー   渡米後、友人のつてで、目標としていたマイケル・ジャクソンのヴォイストレーナーであるセス・リッグスのオーディションを受ける。そこでマイケルに少しでも近づくため、作曲やプロデュースの勉強をさせてくれないかと直訴した。結果、歌ものの曲を書きたいのならと、ボーカルトレーニングも受けておくことを勧められ、東洋人で初めての合格者となり約3年間師事する。トレーニング修了後、LA在住の日本人ギタリスト平野T.J.ヨーイチと出会う。平野は広瀬の才能を高く評価し、日本デビューに向けてデモテープを制作した。そして帰国後、多数のレコード会社にデモテープを送付、そのデモテープがビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)のプロデューサー田村充義の目に止まり、同社から作曲家に留まらず、シンガーソングライターとしてのデビューが決定した。   1992年7月、アルバム『Bingo!』でデビュー、同年12月には1枚目のシングル「愛があれば大丈夫」をリリースした。翌1993年にアルペンのCMソングになった3枚目のシングル「ロマンスの神様」は、オリコンチャートで約175万枚の大ヒットとなりブレイクした。それ以降、「幸せをつかみたい」「ゲレンデがとけるほど恋したい」「promise」など、数々のヒット曲を生み出す。   冬にヒットする曲が多いことから「冬の女王」とも呼ばれるが、ヒットした曲が多いアルペンのCMソングやウインターソングなどは実は一年中温暖なロサンゼルスで書いているとのこと。しかも本人はウインタースポーツも全くやらないということで、これら冬の曲を作るのは大変だったということで、部屋中に雪の風景の写真集を広げたり、舞台が冬の映画を観たり、冷房を強めにして寒さを体感しながら曲を書いたという。夏の方が身近なロサンゼルスに住んでいれば、冬が特別な季節に感じられるとも話している。ちなみに広瀬は、自身のシングル「夏だモン」や広末涼子に提供した「summer sunset」など夏の曲も相当数書いている。   教育現場においては、1999年、独自のメソッドを提唱するヴォイス・トレーニングやヴォーカル・レッスンを行う「Do Dream」(現・広瀬香美音楽学校)を開校、自ら校長を務める。また母校と同系列校である福岡女学院大学で客員教授としても教鞭を執っている。   2000年代   2009年7月19日に、親交のあった勝間和代の勧めにより、Twitterのアカウントを取得する。同年11月13日には、日本人メジャーアーティストとしては初となるTwitterコンサートを開催した。Twitter上のみで観客を募集(募集定員もTwitterの文字数制限にちなんで140人)、当日は観客による会場からのTwitter実況を許可、広瀬本人のMCもTwitterでのみ行われ、歌声と時々笑いが起きる以外はほとんど沈黙状態というコンサートとなった。またTwitter上でのやり取りを通じ、「ビバ☆シリーズ」と称して「ビバ☆ヒウィッヒヒー」など5曲を作曲して自身のブログやYouTubeのビクター公式チャンネルで配信、2009年12月にはそれらを収録した『ビバ☆ベスト』がPC配信限定アルバムとして発売された。   2010年代   2010年1月20日、NHK総合『スタジオパークからこんにちは』にゲスト出演し、同局で同日夜に放送された『SONGS』のロケで初めてゲレンデに行った。「冬の女王」と呼ばれているため「ゲレンデには行かないの?」と聞かれた時は「忙しいから行けない」と答えていたが、放送で「冬が苦手なんです」と告白した。2010年10月4日から、ニッポン放送他全国35局ネットで冠番組『広瀬香美 ラジオdeフォロ〜ミ〜』がスタート、初めて全国ネットのレギュラーラジオ番組を持った(翌年春改編で終了)。2010年11月16日に、東京工科大学で広瀬本人と同大学学生が、Twitterを使用し相互につぶやきながらの講義が行われた。   また、2015年には「広瀬香美合唱団」を設立した。同合唱団のテーマ曲は「最高のエンディングを共に」である(2016年発売のアルバム『25th プレイリスト』に収録)。   レギュラー番組としては、2012年10月から12月までNHK Eテレにて『趣味Do楽 「誰でも歌はうまくなる!〜広瀬香美のボーカル・レッスン〜」』を担当。またその話術が買われ、2013年4月(春改編)よりニッポン放送にて『広瀬香美 ミュージックwith』を15年春改編まで、同年12月よりNHK Eテレにて『趣味Do楽「めざせカラオケ王キング! 〜広瀬香美のボーカル・レッスン PART2〜」』を担当。   2018年5月21日付で株式会社オフィスサーティーとのマネジメント契約を終了し、設立中のMuse Endeavor inc.に移籍を発表した。しかし、オフィスサーティー側は一方的かつ無断で移籍を発表されたとし、5月31日付で「広瀬香美」の芸名を使用した芸能活動の禁止を求めることを明らかにした。その後、8月29日にオフィスサーティーとの間で和解が成立したことを発表した。   2019年12月に公式YouTubeチャンネルを開設。   2020年代   2020年になって、気分が落ち込んで明るい新曲が書けない気分転換として、米津玄師やあいみょんらの楽曲をアレンジして歌い上げる「広瀬香美の○○歌ってみた」シリーズを自身のYouTubeチャンネルに投稿し始める。すると、あまりに自由奔放に歌う様が大きな反響を呼んだ。大晦日には、ももいろ歌合戦(BS日テレ・ニッポン放送・AbemaTV)へ初出場。   2018年8月29日宣布退出原事务所オフィスサーティー,移籍到新会社Muse Endeavor inc.
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広瀬香美
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