高中 正義(たかなか まさよし、出生名:劉 正義(りゅう まさよし)、1953年3月27日 - )は、東京都品川区大井出身のギタリスト、ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家である。   1971年のデビュー以来、日本のロック界、フュージョン界を代表するギタリストの一人である。   使用するギターは、本人の特注色であるラグーンブルーのヤマハのSGが代表的であったが、昨今はフェンダー社制のストラトキャスターモデルを主に使用している。   来歴   中国人(南京市出身)の父亲と日本人の母亲の间に生まれる。父は第二次世界大戦后に中国から来日して高中姓の母と结婚したことから、小学4年生の时に正义本人も日本へ帰化して刘正义から高中正义を名乗ることになったという[1][2]。生まれは北区赤羽だが、生后まもなく品川区大井町へ移転。商店街で「雀荘三元阁」を営んでいた。小学校は私立小野学园へ入学。中学から女子校になるので私立武蔵工业大学付属中学校(现:东京都市大学付属中学校)へ进学。ギターばかり弾いている日々だったが成绩はトップクラス。都立日比谷高校から东京大学を目指し外部高校受検をするも当时の学校群制度により九段高校に合格。不本意な结果だったため武蔵工业大学付属高等学校へ内部进学。高校在学中、府中の米军基地にあるAIRMAN'S Clubでグランド・ファンク・レイルロードやジミ・ヘンドリックスのコピーバンドで演奏した记録が残っている。高校3年生のとき、エイプリル・フールのコンサート中に酔っ払ったメンバーの「谁かギターを代わりに弾いてくれ」という唿びかけに応じて、客席から学生服のままステージに上がり演奏したことがプロ・デビューのきっかけとなる。   柳田ヒログループの一员として、1971年7月日比谷野音で开催された冈林信康の「狂い咲き」コンサート(后にライブ盘も発売)でバッキングを务める。同年8月に、成毛滋とつのだ☆ひろのストロベリー・パスのサポートとしてロックイベント「箱根アフロディーテ」に出演、一カ月后に正规メンバーに迎えられフライド・エッグと改称。このプロデビュー时は本人の意に反してベースを担当させられる。成毛滋に日々レッスンを受け、音楽理论とギター奏法の基础を叩き込まれる。并行して成毛の绍介によりベーシストとしてスタジオ・ミュージシャンの仕事も始める。   フライド・エッグ解散后、加藤和彦が结成したサディスティック・ミカ・バンドに参加し、ここからプロ・ギタリストとして活动していくようになる。スタジオ・ミュージシャンの仕事も徐々にギタリストへ移行していく。1975年、サディスティック・ミカ・バンド解散后は、残ったバンドメンバーの高桥幸宏、后藤次利、今井裕らとサディスティックスを结成する。翌1976年、自身初のソロアルバム『SEYCHELLES』を発表し、以降はサディスティックスとソロ活动を併行していくようになる。他のメンバーもソロ活动と挂け持ちし、いずれもソロ活动のほうに比重を置くようになったため、サディスティックスは自然消灭するように1978年に解散していった。   サディスティックス解散后はソロ・アーティストとして活动していき、毎年コンスタントに1〜2枚のペースで発表していったソロアルバムは、自身のオリジナル曲を中心としたギター・インストゥルメンタル曲で构成されたことにより、それまでのロックから当时盛り上がりはじめていたフュージョンのフィールドに活动がカテゴライズされるようになる。リスナー层は、フュージョン黎明期の楽器を嗜むアマチュアミュージシャンといった限られた层だけではなく、夏や海を连想させる亲しみやすい曲调で当时のトロピカル・ブームとも相まって、早くから流行に敏感な若者层全般まで支持を広げていた。フュージョン・ブームが顶点を指した1980年、代表曲となる「BLUE LAGOON」が収録されたアルバム『JOLLY JIVE』を発表し、さらにその直后には日本武道馆で井上阳水とのジョイントコンサートを行って话题となり、ここで人気が爆発した。   1981年、イタリアの画家ウル・デ・リコの絵本「虹伝説」から得たインスピレーションによって制作したコンセプトアルバム『虹伝説THE RAINBOW GOBLINS』を発表。同年の第23回日本レコード大赏企画赏を受赏したほか、アルバムとともにその世界観をステージに再现した大挂かりなライブは大反响を起こす。1982年、アルバム『SAUDADE』が初のオリコン・アルバムチャート第1位を记録するなど、フュージョン・ブームが収束していった后も人気は継続していった。   1985年、レコード会社をKitty Recordsから东芝EMIに移籍してアルバム『TRAUMATIC极东探侦団』を発表。それまでのトロピカル・ミュージック路线から洋楽を意识したダンス・ミュージック路线にシフトしていくようになり、フュージョン色は消えていくようなる。1980年代末は日本とアメリカのマイアミを行き来するようになり、现地で活动していたマイアミ・サウンド・マシーンとコラボレーションした音楽制作をするようにもなった。   1992年発表のアルバム『Fade to blue』からはダンス・ミュージック路线を抑えて、以前のようなギター・インストゥルメンタルによるフュージョン色が浓い路线に回帰していく。   2000年代に入り、个人レーベルの「Lagoon Records」を设立してからは、それまで年一枚のペースで出していたオリジナル・アルバムの発表は钝くなるも、それに替わって毎年のライブDVDの制作と発表に力を入れていくようになる。
  高中 正義(たかなか まさよし、出生名:劉 正義(りゅう まさよし)、1953年3月27日 - )は、東京都品川区大井出身のギタリスト、ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家である。   1971年のデビュー以来、日本のロック界、フュージョン界を代表するギタリストの一人である。   使用するギターは、本人の特注色であるラグーンブルーのヤマハのSGが代表的であったが、昨今はフェンダー社制のストラトキャスターモデルを主に使用している。   来歴   中国人(南京市出身)の父亲と日本人の母亲の间に生まれる。父は第二次世界大戦后に中国から来日して高中姓の母と结婚したことから、小学4年生の时に正义本人も日本へ帰化して刘正义から高中正义を名乗ることになったという[1][2]。生まれは北区赤羽だが、生后まもなく品川区大井町へ移転。商店街で「雀荘三元阁」を営んでいた。小学校は私立小野学园へ入学。中学から女子校になるので私立武蔵工业大学付属中学校(现:东京都市大学付属中学校)へ进学。ギターばかり弾いている日々だったが成绩はトップクラス。都立日比谷高校から东京大学を目指し外部高校受検をするも当时の学校群制度により九段高校に合格。不本意な结果だったため武蔵工业大学付属高等学校へ内部进学。高校在学中、府中の米军基地にあるAIRMAN'S Clubでグランド・ファンク・レイルロードやジミ・ヘンドリックスのコピーバンドで演奏した记録が残っている。高校3年生のとき、エイプリル・フールのコンサート中に酔っ払ったメンバーの「谁かギターを代わりに弾いてくれ」という唿びかけに応じて、客席から学生服のままステージに上がり演奏したことがプロ・デビューのきっかけとなる。   柳田ヒログループの一员として、1971年7月日比谷野音で开催された冈林信康の「狂い咲き」コンサート(后にライブ盘も発売)でバッキングを务める。同年8月に、成毛滋とつのだ☆ひろのストロベリー・パスのサポートとしてロックイベント「箱根アフロディーテ」に出演、一カ月后に正规メンバーに迎えられフライド・エッグと改称。このプロデビュー时は本人の意に反してベースを担当させられる。成毛滋に日々レッスンを受け、音楽理论とギター奏法の基础を叩き込まれる。并行して成毛の绍介によりベーシストとしてスタジオ・ミュージシャンの仕事も始める。   フライド・エッグ解散后、加藤和彦が结成したサディスティック・ミカ・バンドに参加し、ここからプロ・ギタリストとして活动していくようになる。スタジオ・ミュージシャンの仕事も徐々にギタリストへ移行していく。1975年、サディスティック・ミカ・バンド解散后は、残ったバンドメンバーの高桥幸宏、后藤次利、今井裕らとサディスティックスを结成する。翌1976年、自身初のソロアルバム『SEYCHELLES』を発表し、以降はサディスティックスとソロ活动を併行していくようになる。他のメンバーもソロ活动と挂け持ちし、いずれもソロ活动のほうに比重を置くようになったため、サディスティックスは自然消灭するように1978年に解散していった。   サディスティックス解散后はソロ・アーティストとして活动していき、毎年コンスタントに1〜2枚のペースで発表していったソロアルバムは、自身のオリジナル曲を中心としたギター・インストゥルメンタル曲で构成されたことにより、それまでのロックから当时盛り上がりはじめていたフュージョンのフィールドに活动がカテゴライズされるようになる。リスナー层は、フュージョン黎明期の楽器を嗜むアマチュアミュージシャンといった限られた层だけではなく、夏や海を连想させる亲しみやすい曲调で当时のトロピカル・ブームとも相まって、早くから流行に敏感な若者层全般まで支持を広げていた。フュージョン・ブームが顶点を指した1980年、代表曲となる「BLUE LAGOON」が収録されたアルバム『JOLLY JIVE』を発表し、さらにその直后には日本武道馆で井上阳水とのジョイントコンサートを行って话题となり、ここで人気が爆発した。   1981年、イタリアの画家ウル・デ・リコの絵本「虹伝説」から得たインスピレーションによって制作したコンセプトアルバム『虹伝説THE RAINBOW GOBLINS』を発表。同年の第23回日本レコード大赏企画赏を受赏したほか、アルバムとともにその世界観をステージに再现した大挂かりなライブは大反响を起こす。1982年、アルバム『SAUDADE』が初のオリコン・アルバムチャート第1位を记録するなど、フュージョン・ブームが収束していった后も人気は継続していった。   1985年、レコード会社をKitty Recordsから东芝EMIに移籍してアルバム『TRAUMATIC极东探侦団』を発表。それまでのトロピカル・ミュージック路线から洋楽を意识したダンス・ミュージック路线にシフトしていくようになり、フュージョン色は消えていくようなる。1980年代末は日本とアメリカのマイアミを行き来するようになり、现地で活动していたマイアミ・サウンド・マシーンとコラボレーションした音楽制作をするようにもなった。   1992年発表のアルバム『Fade to blue』からはダンス・ミュージック路线を抑えて、以前のようなギター・インストゥルメンタルによるフュージョン色が浓い路线に回帰していく。   2000年代に入り、个人レーベルの「Lagoon Records」を设立してからは、それまで年一枚のペースで出していたオリジナル・アルバムの発表は钝くなるも、それに替わって毎年のライブDVDの制作と発表に力を入れていくようになる。
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