村田 和人(むらた かずひと、1954年1月2日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家。専門学校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。東京都出身。      デビュー前   中学時代にビートルズ来日のTV放送を見てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。コピーを始めた後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していたという(なお、20歳くらいまではいろんなバンドでベースを弾いていた)。 大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。「ALMOND ROCCA」は1978年のEAST-WEST地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。渋谷にあるYAMAHAのスタジオ「エピキュラス」で練習を行い、デモテープを制作。「エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ」という自主制作版に後のレパートリー曲となる『電話しても』『GREYHOUND BOOGIE』が収録される。また、デモテープがエピキュラスのエンジニアからフリーのプロデューサーに渡り、ソングライティングとヴォーカルを高く評価したプロデューサーが村田に接触するも、完全な洋楽指向で邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聞いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩いて断ってしまう。だが、そのプロデューサーが偶然にも知り合いだったため、山下達郎に実際に会い、デモテープを渡す機会を得る。デビューへの道を模索するが、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため連絡が取れないまま、デビューの話は立ち消えになってしまった。だが、デモテープを聴いた山下達郎は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという。   結局デビューの話が立ち消えになってしまった村田は大学卒業を機会に「ALMOND ROCCA」を解散、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)へ営業マンとして入社する。サラリーマンとして働きながら「ALMOND ROCCA」を再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRCAレコードのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RCAレコード内にあるAIRレーベルに所属していた山下達郎と再会。既に村田を評価していた山下の後押しもあり、デビューが決定する。 1981年、会社を退職しデビューアルバムのレコーディングに入る、山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下達郎が村田を手がけたら、似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、アレンジは鈴木茂と当時寺尾聰のアレンジでヒットを飛ばしていた井上鑑に委ねられることとなる(鈴木はアルバム「LAGOON」を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドからの要望であった)。レコーディングが進む中、製作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、アレンジのやり直しを進言。結局『電話しても』を含む数曲が山下のアレンジでやりなおされることになった。また、製作中にムーン・レーベル設立の話が立ち上がる。第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされることとなり、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル『電話しても』でデビュー、同年6月にファーストアルバム「また明日」がリリースされた。      デビュー後〜MOONレーベル時代   『終わらない夏』のプロモーション終了後、スケジュールの空いていた村田に山下達郎のツアーにコーラスとして参加する話が舞い込む。山下によってリハーサルでかなりしごかれたが、現場での多くの音楽的経験を積んでいった。ツアーで村田が一番参ったのは、他の女性コーラス陣と合わせての「踊り」だったという。1983年、山下達郎のプロデュースでシングル&アルバムを制作。マクセルからの依頼で「一本の音楽」というコピーを使用するという条件で制作された先行シングル『一本の音楽』がスマッシュヒット。CMの露出が多かったこともあり、6月に発売されたセカンドアルバム「ひとかけらの夏」は売れ行きも上々、ライブもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くライブ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーでサウンドを確立していった。翌1984年TMネットワークでデビューする小室を除くメンバーでサードアルバム「MY CREW」を製作。本来このサードアルバムで再び山下がプロデュースを行う予定だったが、村田サイドがこのバンドメンバーでのレコーディングを選択。セカンドアルバムでの経験を生かした、村田のセルフプロデュース作となった。全国主要5都市を含む全国ツアーも行われた。 しかし、翌1985年は再登板の予定だった山下が諸事情により(自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤など)制作に着手できず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動となってしまい、結局アルバムの製作は流れてしまった。 翌1986年に新しいディレクターの手引きで渡米し、ロニー・フォスターの元で「showdown」を製作。LAのスタジオミュージシャンを起用した本作は、これまでの村田にはないアーバンでスタイリッシュなテイストを盛り込んだ意欲作となった。 翌1987年に再渡米、 LAでベーシックトラックを製作し、日本でダビング及びヴォーカルを録音する形で製作された「Boy's Life」はこれまでの村田の音楽活動の集大成というべき作品となった。      東芝時代   デビューからスタッフや状況が変わったことや、アルバム製作が一段落着いたということもあり、環境のリセットを考えていた村田は東芝EMIへ移籍する。当時大流行していた打ち込みによる音作りを大胆に持ち込んだアルバム「GO POP」を1988年にリリース。アレンジも他人に委ねた本作は、村田独自のポップなメロディーは健在ながら、これまで培った生音中心の綿密な音作りと逆方向の仕上がりになった。 次作「太陽の季節」(1989年)はざっくりしたバンドサウンドに振った作品、「空を泳ぐ日」(1990年)はややMOONレーベル時代の作りに戻った感はあるものの、総じてやや停滞した音楽活動となってしまった感は否めなかった(「電話しても」のアンサーソング「電話しなくても」も収録)。また、村田本人もどこかルーチン的になってしまった音楽活動に新鮮さを失い、コーラスやアレンジの仕事をこなしつつ、湯川トーベンのフォークロックスや杉山清貴とのユニット「INN&OUT」等のアマチュア的な音楽活動へ向かい、表舞台からは徐々に姿を消していくこととなった。      ビクター/ROUX時代   アマチュア的に純粋な音楽活動に携わるうちに、村田は音楽製作に対する意欲を取り戻していった。また、東芝時代の反省も生かし、「やりたいことを、やりたいメンバーで、自分のプロデュース・アレンジで製作する」という決意の元、「HELLO AGAIN」(1993年)をリリース。ドラムだけは打ち込みになったものの、当時のメンバーによる演奏や山下達郎の参加により、村田復活を感じさせる佳作となった。続く「evergreen」(1994年)は完全バンドサウンドによる村田サウンドの復活を、「sweet vibration」(1995年)はサウンドスタイルはそのままに楽曲の多様化をそれぞれ目指した作品で、いずれも村田らしさに満ちた充実した作品となった(村田自身、リイシューしたアルバムの解説で「3枚とも迷いのないアレンジ、妥協のないメロディ、アイデアやメリハリなど、自分の音楽活動のひとつの区切りをつけたもの」と発言している)。ただ、セールス的には当時のマーケットには受け入れられたとは言い難い状況だった。以降、村田のオリジナルアルバムのリリースは2008年まで途絶えることとなる。      〜現在まで   再びアマチュア的な音楽活動に戻っていた村田に、尚美学院が新しく創設した「プロミュージシャン学科」から講師の依頼が入った。最初は気乗りしなかった村田だが、次第にやりがいを感じ、講師活動に精力的に取り組むこととなる。また、村田が講師をしているという話を聞きつけた他の学校から講師のオファーがあったり、卒業した生徒から個人的にレッスンを依頼されたりするうち、いつしか活動はレッスン一色になっていった。そのまま講師活動を続けようと思っていた村田であったが、講師活動が6年間経った時に自身が肺炎で入院したことと、ALMOND ROCCAのベーシスト・新井正春が急逝したことを契機に、自分の音楽活動に戻ることを決意する。また、自身の音楽活動を総括するため、1・デビュー前のデモソングの再録、2・夏モノアルバム、3・ロック物のアルバムの三部作を製作するという着想を得、2008年4月に13年ぶりの新作となる「Now recording」を自主リリースした。同アルバムはライブツアー活動のプロモーション用に作成した側面が大きかったが、音楽関係者からの反響が大きく、同年8月にメジャーレーベルであるユニバーサルレコードからボーナストラック5曲入り、24bitリマスターでの再リリースとなった。 翌2009年には夏海物のアルバム「ずーーっと、夏。」をリリース。次作はロック物の予定だったが、「ずーーっと、夏。」の反響が大きかったため、翌2010年には同傾向のアルバム「ずーーっとずっと、夏。」のリリースとなった。2012年には「夏モノ3部作」の3作目として『ずーーっとずっと、ずっと夏。』をリリース。同アルバムからは「太陽のPrecious」(作詞:安藤芳彦/作曲・編曲・歌:村田和人))が東芝「住宅用太陽光発電システム」のCM「次の暮らし篇」のCMソングとして先行放送された。 2013年には他アーティストへの提供曲をカバーした『Treasures in the BOX」を6月に、夏モノ3部作から選出した楽曲にマイケル富岡の喋りを乗せたラジオ風のノン・ストップDJミックスに仕上げたベスト盤『夏!夏!夏!』を7月にリリースしている。 現在もブッキングまで自分で行い、日本各地を訪れるライブ活動を精力的に行っている。
  村田 和人(むらた かずひと、1954年1月2日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家。専門学校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。東京都出身。      デビュー前   中学時代にビートルズ来日のTV放送を見てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。コピーを始めた後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していたという(なお、20歳くらいまではいろんなバンドでベースを弾いていた)。 大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。「ALMOND ROCCA」は1978年のEAST-WEST地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。渋谷にあるYAMAHAのスタジオ「エピキュラス」で練習を行い、デモテープを制作。「エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ」という自主制作版に後のレパートリー曲となる『電話しても』『GREYHOUND BOOGIE』が収録される。また、デモテープがエピキュラスのエンジニアからフリーのプロデューサーに渡り、ソングライティングとヴォーカルを高く評価したプロデューサーが村田に接触するも、完全な洋楽指向で邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聞いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩いて断ってしまう。だが、そのプロデューサーが偶然にも知り合いだったため、山下達郎に実際に会い、デモテープを渡す機会を得る。デビューへの道を模索するが、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため連絡が取れないまま、デビューの話は立ち消えになってしまった。だが、デモテープを聴いた山下達郎は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという。   結局デビューの話が立ち消えになってしまった村田は大学卒業を機会に「ALMOND ROCCA」を解散、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)へ営業マンとして入社する。サラリーマンとして働きながら「ALMOND ROCCA」を再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRCAレコードのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RCAレコード内にあるAIRレーベルに所属していた山下達郎と再会。既に村田を評価していた山下の後押しもあり、デビューが決定する。 1981年、会社を退職しデビューアルバムのレコーディングに入る、山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下達郎が村田を手がけたら、似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、アレンジは鈴木茂と当時寺尾聰のアレンジでヒットを飛ばしていた井上鑑に委ねられることとなる(鈴木はアルバム「LAGOON」を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドからの要望であった)。レコーディングが進む中、製作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、アレンジのやり直しを進言。結局『電話しても』を含む数曲が山下のアレンジでやりなおされることになった。また、製作中にムーン・レーベル設立の話が立ち上がる。第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされることとなり、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル『電話しても』でデビュー、同年6月にファーストアルバム「また明日」がリリースされた。      デビュー後〜MOONレーベル時代   『終わらない夏』のプロモーション終了後、スケジュールの空いていた村田に山下達郎のツアーにコーラスとして参加する話が舞い込む。山下によってリハーサルでかなりしごかれたが、現場での多くの音楽的経験を積んでいった。ツアーで村田が一番参ったのは、他の女性コーラス陣と合わせての「踊り」だったという。1983年、山下達郎のプロデュースでシングル&アルバムを制作。マクセルからの依頼で「一本の音楽」というコピーを使用するという条件で制作された先行シングル『一本の音楽』がスマッシュヒット。CMの露出が多かったこともあり、6月に発売されたセカンドアルバム「ひとかけらの夏」は売れ行きも上々、ライブもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くライブ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーでサウンドを確立していった。翌1984年TMネットワークでデビューする小室を除くメンバーでサードアルバム「MY CREW」を製作。本来このサードアルバムで再び山下がプロデュースを行う予定だったが、村田サイドがこのバンドメンバーでのレコーディングを選択。セカンドアルバムでの経験を生かした、村田のセルフプロデュース作となった。全国主要5都市を含む全国ツアーも行われた。 しかし、翌1985年は再登板の予定だった山下が諸事情により(自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤など)制作に着手できず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動となってしまい、結局アルバムの製作は流れてしまった。 翌1986年に新しいディレクターの手引きで渡米し、ロニー・フォスターの元で「showdown」を製作。LAのスタジオミュージシャンを起用した本作は、これまでの村田にはないアーバンでスタイリッシュなテイストを盛り込んだ意欲作となった。 翌1987年に再渡米、 LAでベーシックトラックを製作し、日本でダビング及びヴォーカルを録音する形で製作された「Boy's Life」はこれまでの村田の音楽活動の集大成というべき作品となった。      東芝時代   デビューからスタッフや状況が変わったことや、アルバム製作が一段落着いたということもあり、環境のリセットを考えていた村田は東芝EMIへ移籍する。当時大流行していた打ち込みによる音作りを大胆に持ち込んだアルバム「GO POP」を1988年にリリース。アレンジも他人に委ねた本作は、村田独自のポップなメロディーは健在ながら、これまで培った生音中心の綿密な音作りと逆方向の仕上がりになった。 次作「太陽の季節」(1989年)はざっくりしたバンドサウンドに振った作品、「空を泳ぐ日」(1990年)はややMOONレーベル時代の作りに戻った感はあるものの、総じてやや停滞した音楽活動となってしまった感は否めなかった(「電話しても」のアンサーソング「電話しなくても」も収録)。また、村田本人もどこかルーチン的になってしまった音楽活動に新鮮さを失い、コーラスやアレンジの仕事をこなしつつ、湯川トーベンのフォークロックスや杉山清貴とのユニット「INN&OUT」等のアマチュア的な音楽活動へ向かい、表舞台からは徐々に姿を消していくこととなった。      ビクター/ROUX時代   アマチュア的に純粋な音楽活動に携わるうちに、村田は音楽製作に対する意欲を取り戻していった。また、東芝時代の反省も生かし、「やりたいことを、やりたいメンバーで、自分のプロデュース・アレンジで製作する」という決意の元、「HELLO AGAIN」(1993年)をリリース。ドラムだけは打ち込みになったものの、当時のメンバーによる演奏や山下達郎の参加により、村田復活を感じさせる佳作となった。続く「evergreen」(1994年)は完全バンドサウンドによる村田サウンドの復活を、「sweet vibration」(1995年)はサウンドスタイルはそのままに楽曲の多様化をそれぞれ目指した作品で、いずれも村田らしさに満ちた充実した作品となった(村田自身、リイシューしたアルバムの解説で「3枚とも迷いのないアレンジ、妥協のないメロディ、アイデアやメリハリなど、自分の音楽活動のひとつの区切りをつけたもの」と発言している)。ただ、セールス的には当時のマーケットには受け入れられたとは言い難い状況だった。以降、村田のオリジナルアルバムのリリースは2008年まで途絶えることとなる。      〜現在まで   再びアマチュア的な音楽活動に戻っていた村田に、尚美学院が新しく創設した「プロミュージシャン学科」から講師の依頼が入った。最初は気乗りしなかった村田だが、次第にやりがいを感じ、講師活動に精力的に取り組むこととなる。また、村田が講師をしているという話を聞きつけた他の学校から講師のオファーがあったり、卒業した生徒から個人的にレッスンを依頼されたりするうち、いつしか活動はレッスン一色になっていった。そのまま講師活動を続けようと思っていた村田であったが、講師活動が6年間経った時に自身が肺炎で入院したことと、ALMOND ROCCAのベーシスト・新井正春が急逝したことを契機に、自分の音楽活動に戻ることを決意する。また、自身の音楽活動を総括するため、1・デビュー前のデモソングの再録、2・夏モノアルバム、3・ロック物のアルバムの三部作を製作するという着想を得、2008年4月に13年ぶりの新作となる「Now recording」を自主リリースした。同アルバムはライブツアー活動のプロモーション用に作成した側面が大きかったが、音楽関係者からの反響が大きく、同年8月にメジャーレーベルであるユニバーサルレコードからボーナストラック5曲入り、24bitリマスターでの再リリースとなった。 翌2009年には夏海物のアルバム「ずーーっと、夏。」をリリース。次作はロック物の予定だったが、「ずーーっと、夏。」の反響が大きかったため、翌2010年には同傾向のアルバム「ずーーっとずっと、夏。」のリリースとなった。2012年には「夏モノ3部作」の3作目として『ずーーっとずっと、ずっと夏。』をリリース。同アルバムからは「太陽のPrecious」(作詞:安藤芳彦/作曲・編曲・歌:村田和人))が東芝「住宅用太陽光発電システム」のCM「次の暮らし篇」のCMソングとして先行放送された。 2013年には他アーティストへの提供曲をカバーした『Treasures in the BOX」を6月に、夏モノ3部作から選出した楽曲にマイケル富岡の喋りを乗せたラジオ風のノン・ストップDJミックスに仕上げたベスト盤『夏!夏!夏!』を7月にリリースしている。 現在もブッキングまで自分で行い、日本各地を訪れるライブ活動を精力的に行っている。
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村田和人
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